20191010

半年ぶりくらいにバンドで出演するライブが決定した。11月21日に大阪は心斎橋新神楽。まだ解禁していないライブも何本かあるけれど、それら全て今スタジオワークでサポートをしてくれているベーシストと、ナカシーと、自分の3人でやる。大阪のチケットが予想以上のスピードで無くなってしまったことに驚いてしまったのと同時に、自分たちの音楽にまだちゃんとニーズがある事はとても嬉しかった。ひとまず沢山の連絡ありがとうございました。

 

またさよならポエジーがライブハウスでライブをすることを心待ちにしていてくれた人がいるだろうし、現場に戻ってくることを呆れずに待っていてくれた裏方の人たち、友達にも、自分たちの元気な姿を見せられると思う。未来永劫の活休だの、解散しただのと誤解している人もいるだろうけど、ライブ活動を休止するという文言の上で地下に潜ったのだから、その上で勘違いされたのなら仕方がない。人として、一度興味を失ったものに再び興味を持つことは難しいし、だから恨んだりはしない。

 

今後、ライブを続けていけるかどうかもまだ未定。そもそも予めにあれやこれやと決められるような手札もないし、未だにその日暮らしではある。前もって変に期待を膨らませてしまうなら、いきなり膨らませた方が面白そうだし、風の吹くままで良いと思う。今のところ音楽を完全に手放すような未来は想像していないから、「まだまだ続けていく」と思う。その他に優先事項もある。

 

今はとにかく新しい音源を作ってみよう、ということになっている。それを目標に日々スタジオワークに営んでいる。全然曲は増えないけれど、これが結構楽しい。

ここ半年くらいはライブこそ無かったものの、僕たちはずっと活動していたし、頭を動かしたり、あれこれと考えたり、この二本足で立っていた。僕たちにとってそれが、誰かの目に見えていたかどうかは全く重要なことじゃないし、今も地に足をつけて日々音楽(バンド)をしながら過ごせていることを楽しいと感じている。

 

少しずつ、音楽が自分の人生に馴染んできている。どちらかを代償にどちらかを得る、という事はあまり考えていない。音楽のために仕事を、仕事に生き血を注ぐように音楽を、双方が支え合っている気がする。

 

バンドというものに対して、活発的な活動を期待している人が沢山いることもよく理解しているけど、自分たちがその願いを叶えられるかといえば、ハッキリと明言出来ない。でもきっと音楽にも続け方・人によっての続けられるやり方があるし、僕はこの国で一般的に捉えられているロックバンドスタンスの事は結構どうでもいい。光を浴びながら突き進んで行く姿が多くの人を感動させてきたのはそれなりにわかっているけれど、自分たちにはあまり「関係ない」。

とりあえず僕たちにとってやってみたいことが、今は楽曲制作。過去一番マイペースにやっている。それでも、自分を囲ってくれる環境はその速度からでも十分に生み出せると思う。なにより、牛歩ながらも歩み続けてきた自分たちに自信があるし、人並みに誠実さは持っているつもりだし、だからこそ誰かに忘れられても、別にそれは仕方ない。そういうのを怖がって活動している人たちもいるが、あまり共感はしない。

 

結局、人は自分たちでは選べないものに選ばれていくしかない。人ひとりの行動や想像力が、人を呼び、その人がまた別の誰かを呼ぶ。それがいい。噂というものが一番力強く、タフで健康的だ。僕たちは人の心があるものに直面した時、自分たちの心をキチンと込める。そして自分たちの心を込めたものが、人の心のある場所にたどり着けばいい。1年後だろうが10年後であろうが、上手くいくならそれでいい。俗に言う、何かに媚びてしまったり、自分に過信して巨大な力を物乞いしてしまったりすると、自分たちの「瑞々しかった心」や「想像力」は、もう二度と元の姿では戻ってこない。等身大の美学。少なくとも自分はそう思う。

 

同じようことに気付いている人たち、向こう側でその味を覚えてしまった怪物たち。自分が共に肩を組んでいくのは前者であり、誰かにとってのたった1つの自力が他者ににたどり着き、そこでうまく作用していく瞬間を想像したりしている。

 

とりあえず今は、というか今も、自分たちなりに持久走を続けること。走ったり、呼吸を整える為に歩いたり、水分を補給したりする。バンドをやる上で僕たちにゴールテープはどこにも無いのだけれど、できれば走り続ける最中で顔を横に向けた時、誰かが歩道からやさしく手を振ってくれているような瞬間。そして誰かが走り続ける姿に、僕たちが手を振るような瞬間。せっかくバンドをやっているのだから、そういう瞬間くらいは夢見ている。

 

ライブもできていないから言葉ばかりが先行して行くが、そういった想像力たちが自分たちの行く末に役立てばいい。今後も、出演が決まったライブに予定が合う人は是非観に来てもらえたらと思います。また風を集めている。

20190813

東京に居る。深夜に神戸を出発し、自分は静岡県掛川市まで車を運転した。そこからはナカシーと運転を交代する事になり、後は睡魔に体を差し出して助手席でズルズルと眠ってしまった。いよいよ分かってきたことだけれど、自分は名古屋辺りを越えてしまうとそこからは集中力を上手く保てない。道程が退屈だとか、そういったことではないんだけれど。

夜に走る伊勢湾岸道は良い。東へ向かう際はなるべく通るようにしている。伊勢湾を大きく跨ぐ橋から眺める鈍色な海や、今にも大きな音を立てて動き出しそうな数十の工場たちを眺めていると心がとてもワクワクする。煙突から顔を出した煙が空に吸い込まれ、定間隔で点灯し続ける工場の光が海の波に反射している。砂塵のような小さな光がゆらゆらと明滅する様がとても良い。退屈な車移動に訪れる、たった数分の眼福である。

 

8日に名古屋、11日に大阪で弾き語りがあった。双方で異なる空気感のライブだったけれど、理屈なんかではなくより感覚的に楽しんでもらえたならとても嬉しい。自分もそういった風に演奏するように努めることが出来たと思う。そして少しずつアコースティックギターとも仲良くなれてきた感覚もあるし、それに没頭する上での楽しさも徐々に分かってきた。あと一本弾き語りで出演するイベントが決まっているので、それまでは継続的に練習出来れば良いなと思う。

今晩は日本武道館へ行く。

20190806

ひとまず静岡、東京と弾き語りが終わった。静岡の方は緊張のせいか(情けない言い訳だけれど)、「できること」しかできなかった。終演1秒後から反省モードに入り、それを活かすかの様に吉祥寺はよりリラックスして演奏できたと思う。優劣ではなく、しばらくライブをしていなかったことで改めて人前に立つ緊張や、目に見えない独特な束縛感をそれなりに体感してしまった。回数を重ねて、少しずつそれらを揉みほぐして行く他ない。静岡UMBERは8周年、吉祥寺WARPは20周年だった。自分が祝われることは得意ではないけれど、知らず知らずのうちに自分が誰かを祝い称えている存在として機能している瞬間がある。力を添える、と言うよりは自分はそこに居るだけなんだけれど、自分にもそれらに対して些細な役割があるのだとしたらとても嬉しい。もう明後日になるけれど、次は名古屋で弾き語りがある。それはライブハウスの10周年でもあり、友達のリョータくん(LUCCIスタッフ・CLUB SAKENOMITAI)の誕生日イベントという名目も含んでいる。関係のない人にとっては全く関係のない名目だけれど、興味がある人はフラフラとお酒でも呑みながら会場に漂う音楽を楽しんでくれたらいい。会場は栄R.A.D。チケットは(sayonarapoesie@gmail.com)まで。僕が返信しています。

20190723

昨日の日記が自分の生存確認のようになっていたけれど、ナカシーも元気にしている(多分)。単身だと思っていた静岡や東京の弾き語りにも同行するらしく(「見たいバンドの出演もあるから」と仰っている)、二人でひとつの機材車を運転して会場へ向かう予定になっている。ナカシーナカシーなりに、バンドが表立った活動をしていない今の時間を使ってちょこちょこと趣味の釣りへと向かったり、友人と遊んだり、拉麺をよく食べていたり、普通にアルバイトをして生活を送っているそうだ。6〜7年一緒にバンドをしているけれど、バンド以外の時間を共に過ごしたりすることは殆ど無い。触れないようにと配慮している訳ではなく、ただお互いがお互いの時間を好きなように過ごしているだけなんだと思う。共通した好きなものだってあるし、共通した苦手なものもある。彼には彼の時間があり、自分には自分の時間が流れている。僕たちは偶然同じバンドを今も組んでいるのだ。

 

バンドはというと、6月中旬ごろから毎週スタジオワークに努めている。「サポート出来る事があるなら是非してみたい」と声をかけてくれた方にベースを握ってもらい、既存の曲を繰り返し練習したり、今僕たちがどういったマインドで音楽に没頭しているかなどを話したり(上手く出来ているといいが)、それを受け取って貰ったりしながら、なるべく内側の内側からグツグツとそれらを煮込むような時間に費やしている。順調に行けばライブだって出来るかもしれない。

ここ1年ほどで僕たちは楽器を演奏することに対してそれなりに神経質になってきた。神経質、というか自身のプレイに強い向上心を抱くようになってきている。ただの自己満足でしかないから僕たち以外の人は誰も気にせずでオーケーなんだけれど、今までは勢いに任せることしか出来なかったアウトプットの幅を広げたいということでもあるし、この自己満足が自分たち自身や、回り回って自分たち以外の人へもうまく作用すれば良いなと思っている。でも思っているだけであって、僕たちの音楽は誰にだって好きなように聴いてもらえればそれでいい。ここに書き残したことによって、誰かに何かを強いらせている訳ではない。受け取り手を上手く自分のテリトリーに誘い込めたとして、結局は受け取り手がその時どう感じたかというフラットな感情に全てを委ねられない限り、何をやったとしても不誠実だと思う。内向的な僕(たち)は、その内向的がゆえの姿であり続けることで、もしかすれば美しい花を咲かせることが出来るかもしれない。そんな僕たちに対して、もし同業のバンドマンたちが親身なアドバイスをくれるなら、それはとても有り難いし、参考にもしたいと思う。自分たちの価値は、自分たち以外が決めくれるべきだ。それが一番フェアだし、ムキにもなれる仕組みだと思う。

 

今晩もバンド練習がある。

20190722

夜のアルバイトを終え、そのままの足で三ノ宮のリハーサルスタジオへ入る。告知も始めているが、計4本の単身弾き語りライブが決まっている。これまでも何度か弾き語りのオファーを多方面から頂いてきたけれど「自分はバンドがやりたくて音楽に触れている者だから」と断ってきた。しかし今はメンバー(Ba.)の脱退を5月に迎え、そうは言ってもバンドは格好の付かない姿になっていたし、自分のものさしで拒んできたスタイルにも、実際少しずつの興味関心が芽生え始めている。なのでこの期間に何本か単身で挑戦させてもらうことにした(バンドが間に合えばバンドで出演するとも伝えていた、が無理だった)。内容はライブハウスの周年イベントであったり、シンプルにブッキングであったり、先輩に声をかけてもらった企画であったりと様々で、来場してくれるお客さんの人色がそれぞれの場所・イベントで違ったりするのかもしれない。とても楽しみにしている。

 

そして自分が今もしぶとく元気であるという姿を実際に見てもらうことにも意味があると思っているし(恥ずかしながら)、今の自分に出演の声をかけてくれる人達との関係性も、今自分が引き寄せ、実際に集めることが出来ている光の質量でもある。未来のことではなく、現在から次の現在へと繋げ続けていくことしか出来ない光がある。この光を誠実に握りしめて行くことで、自分はより誠実に年老いて行くことが出来ると思っている。派手な事はしないし、きっと上手く出来ない。自分は控えめな広さの世界で生きている。そして、等身大であることくらいは出来る。ギブアンドテイクは、ギブのことだけ考えていればいい。自分が生み出している音楽にとって(また自分にとって)の幸福は、唐突な100万人の観衆ではなく、人から人へ繋がり渡って行くその1つのエネルギーと共に生きて行くことだ。誰かの口から誰かの口へ、心から心、街から街へ。作為ではなく、計算ではなく、よく揉みほぐされた身体に血液が健康的に流れていくように、それらが無垢な姿で旅を続けることだ。少なくとも今はそう思っている。何かを諦めたわけでない。